三泗会場の概要 1

日時 平成13年12月8日(日)午後1時30分〜4時30分
於 四日市あさけプラザ


第1部 基調講演「市町村合併を考える」
《講演のポイント──渡辺悌爾氏》
○ ちょうど60年前、日本は太平洋戦争に突入した。軍部を中心に中央集権のしくみをつくった。戦後改革と言っても、結果的に東京一極集中は進んだ。それまでの日本はたいへん分権的な国であった。地域社会の地域文化が花開く源であった。しかし、今の世界はグローバル競争の時代となり、生産拠点が海外に移転し、地方の経済は大変な状況になっている。中央集権のもとで、地方が自ら自立し、自らの知恵で考えることができなかったことが問題の根本にあるのではないか。
○ まもなく、日本は本格的な少子高齢化社会に入ってくる。三重県の推計人口は2025年には173万であり、2050年には低位推計で136万まで減るという試算結果である。合計特殊出生率も1.4を割り、21世紀の終わりには、日本の人口が6,000万人になるかもしれない。地域社会を支えるのは人であり、右肩上がりの時代のしくみに拘っていると大変なことになる。このことを一人一人が認識し、集権官治から分権自治のしくみへと変えていくことを、今まさに考えなければいけない。
○ よく出る意見の1つに、「国が作り出した財政赤字のツケを地方に回すのは、けしからん」ということを聞く。1つの家庭に例えてみると、親の作った借金を息子が「知らん」と言って好き勝手なことをしているようなものだ。そんな家庭は崩壊する。将来を考えるということは、家族一緒になって相談して決めるのが健全な姿であり、地域における合併問題でも同じことである。
○ これまでの行政について、いろんな悪口を言われる。縦割り行政、横並びの発想、前例踏襲、ハコモノ主義などであるが、その裏で地方自治体は大変な借金を抱えている。経済が数%ずつ成長していれば十分返せるが、GDPはマイナス成長であり、貿易黒字も減っている。資源もエネルギーもない国だから、そのうち貿易赤字になってしまう。今まで良かったからということは許されない時代になっている。「財政錯覚」ということがあるが、国のお金を取ってきた町長が偉いというイメージを払拭しなければならない。決して他人のお金ではない。国全体の租税収入が87兆円、支出が156兆円で倍である。どう手品を使っても続けられる話ではない。
○ 公と民との役割を考えるべき時代である。欧州連合の憲章の中で言われているような、「補完性の原則」システムの再構築を考えるべきである。最近、NPO活動が活発化している。公の仕事についても、必ずしも役所がやらなければならないことばかりではなく、NPOの知恵でできれば、役所もスリム化し、安い財政コストでうまくやれる。自分たちの知恵で、使い勝手がいいように作り替えていこうというのが健全な動きである。分かっていながらなかなかできなかったことを、やるチャンスだと捉えることである。役所がやらなければならない団体自治と、住民による住民自治とは両輪となるべきもので、中央集権のしくみを変えて、住民自治が花開くような地域社会のシステムに作り替えていくことが重要な課題である。
○ 合併すると住民自治が破壊されるという議論がある。また、市役所周辺が栄え、周辺部が寂れるという意見もある。これまではそうだっただろう。しかし、今は中心市街地が空洞化し、郊外に移住している。市役所があるところが栄えるという議論は、古いイメージだ。
○ 広域行政の必要性の高まりと、狭域行政の必要性と、それを補完する住民自治という、3つがスクラムを組んで行くことが重要である。例えば政令市では区役所が置かれるが、東京のように区議会や区長の公選をやればいいと思う。都市内分権は非常に大切である。規模の経済、広域行政の必要性という意味から言えば、10万人で1,000人程度の職員規模でないと専門職員も置けない。
○ 現実的な動きとしては、明治の大合併では7万の市町村が1万5千になり、昭和の大合併で3千くらいになった。昭和20年頃の時代は、自転車で動ける範囲が市町村の範囲であり、新制中学校の規模であった。平成の大合併というと、自転車から車へと交通手段が変化し、IT革命により電子自治体化が進んできた。広域行政を促すチャンスである。
○ 重点支援地域がずいぶん増えてきた。員弁郡5町の合併構想では、東海環状自動車道がつながると、東員から北勢まであっという間であり、道路が軸となって広域行政がしやすくなる。津広域や松阪広域でも動きが出ており、全国でも6割近くが、研究会など何らかの動きをしているというデータもある。
○ この地域においては、四日市と鈴鹿で政令市をめざそうという動きがある。日本の地方自治は3層の構造だが、政令市になれば、県を介さず直接権限を行使できる。政令市への権限移譲項目は103項目であるが、中核市は73項目、特例市はわずか15項目である。つまり、都市計画、産業振興、環境などで、地域に合った政策が行える。そういう枠組みでは、合併したらゼロベースで条例などを作り直す。周辺のまちは、損をするから議論に入らないという考えはすべきでない。損得の議論ではなく、高い志で、子孫のために何をしなければならないかを考える時代である。


《講演のポイント──早川鉦二氏》
○ 全国的に注目を浴びている福島県の矢祭町を紹介したい。この町は人口7,200人で、財政もあまり豊かでないまちだが、いかなる市町村とも合併をしないまち宣言をした。この中の観点として、まず、今回の合併は国の財政再建のためであるということと、市町村は自己決定能力を十分に持っているということで、国が押しつける合併には賛成できず、将来に禍根を残す選択はすべきでないとのことから、合併しないことを宣言したという。
○ 具体的には、まず、1つ目に「今日まで合併を前提としたまちづくりはしていない」ということで、今までやってきたまちづくりが、これからどこまで続けられるのかという懸念がある。2つ目に、「よりきめ細やかな行政をする」ということで、例えば多治見市では年に2回、地区懇談会が開かれるが、大きくなると難しくなることは言うまでもない。3つ目には「過疎化がさらに進むことは間違いない」ということで、都市圏ではなく過疎地では、やはり役場周辺だけが賑わい、周辺はまちが消えていく。矢祭町長は「中心部に一極集中し、辺境部は貧乏くじを引く。小さくても住民の顔を見えるまちづくりをめざす」と言っている。
○ 四日市と三重郡の合併問題については、1991年の6月に四日市市議会で前市長が「21世紀は北勢全体が1つになる時代。当面は四日市と周辺4町が議論になるのではないか」という答弁をしている。これを契機に、青年会議所が中心となって、シンポジウムを開くなど、大変な努力をされた。しかし、周辺のまちは大変恵まれており、なかなか合併まではいかなかった。
○ 岐阜と羽島の合併を検討するなかで、1969年の岡山市の合併を検証した結果、大変な問題があることに気づいた。岡山市と合併した旧西大寺市は「岡山市の副都心」「東の玄関口」として発展が約束されていたが、実際は、西大寺地区は閑古鳥が鳴いている。もちろん、合併のせいだけではないが、大きくなった岡山市に依存し、地域の人が地域のことを考えなくなったことが問題である。自治意識の希薄化は避けがたい、ということを第一に感じた。
もう一つは、下水道の整備率、公営住宅などについて、合併後の市民福祉の指標があるのだが、目標を大きく下回っている。同規模の市と比べても、市民福祉が進んでいない。これは、岡山市が中四国の中核都市をめざし、都市基盤の整備に大変なお金を使ってきたからだと思う。
○ スウェーデンでは、戦後、2回の市町村合併を経て、289のコミューン(市町村)になったが、福祉が進んでいるだけでなく、すばらしい地方自治が成立しているという認識だった。そんな広いところで住民自治は成立するのか、という疑問を持った。結論としては、日本人とは違い、主権者としての意識、政治への意識が高い。そして、民主主義の伝統の違いがある。また、政治への信頼がある。非常に税負担が高いが、高負担、高福祉の国である。政治への信頼があるからこそ、こういうことができるわけだと思う。
しかし、スウェーデンも私たちと同じ住民が作っている国、地方自治である。合併して、行政区域や人口が増えると、住民の声が反映されなくなり、参加が難しくなる。だから、住民の意見を行政に反映するよう、市域を分けて、福祉、教育、文化などが住民に委ねられている。
○ 以上を踏まえて、今の日本において進められている市町村合併に、住民自治ということから大変危惧を持たざるを得ない。1つは、住民自治の主体である住民が地域のことを考えなくなり、他人に依存してしまうことほど重要な問題はない。もう1つは、大きくなればなるほど、行政が肥大化し官僚的になるのが避けがたい。それから、議員の数がどんどん減る。スウェーデンでは議員の下限の数字が決められているが、これは民主主義がいかに大事かということである。
もう1つの問題は、市役所と市民との政治的な距離が遠くなるということである。先だって新聞で紹介されたアメリカの人口87人の町では、新町長が大学生で、公約が「合併に反対する」というものであった。そうした自分のまちに対する愛着や誇りを学ぶべきではないか。
最後の1つは、住民の声が無視されるということである。御嵩町では産廃の問題が全町民の問題になったのは、小さな自治体であるが故であり、多治見市の一部であれば、小さな地区の小さな課題に過ぎないとなっていただろう。21世紀は参加の時代である。であれば、もう少し長いスタンスで合併問題を考えるべきである。




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